古くは弥生時代からその原型とされる加工品が出されており、「日本書紀」にも”干し飯”を蜜で固めたものが記されています。
平安期初期は菅原道真が大宰府へ向かう途中なにわの人々が栗の実を飴で固めた品を献上したことから「大阪のおみやげ」として重宝されるようになりました。


古くは弥生時代からその原型とされる加工品が出されており、「日本書紀」にも”干し飯”を蜜で固めたものが記されています。
平安期初期は菅原道真が大宰府へ向かう途中なにわの人々が栗の実を飴で固めた品を献上したことから「大阪のおみやげ」として重宝されるようになりました。
江戸時代の大坂は、河川の改修や堀の開削を行い、千石船によって各地の藩の蔵屋敷へ年貢米が運ばれるなど『水の都』として繁栄を極めます。
堂島の米市場では世界最初の先物取引が行われるほど経済の発展を見せ、同時に元禄文化が花開きました。
全国物産の集散地となった大坂は「天下の台所」と呼ばれ「おこし」の原料である良質の米・飴などが入手しやすい環境にありました。
初代はこれに着目し長堀川の河畔、あみだ池に店舗工場を建て、美味い「お米のおこし」を作り始めるようになりました。
こうして大坂が栄えると共に"おこし"は<身を起こし 家を起こし 国を起こす 縁起の良いお菓子として大阪名物になり、広く人々に親しまれるようになりました。
明治37年、日露戦争の時に明治天皇より戦地の兵隊さんに配られる菊の御紋章入り「恩賜のおこし」35万函の大量注文をあみだ池大黒が受ました。
このおこしが兵隊さん達に非常に好評で、帰国の後に「おこし」を大阪で求める風潮が高まり 「おこし」が大阪名物として、さらに全国に認知されることとなりました。